創業100年に寄せて~水信100周年ストーリー~

「水信(みずのぶ)」の歴史は大正4年(1915年)、初代加藤信明が横浜で台湾バナナ加工卸問屋「水信商店」を創業したことにさかのぼります。需要が大きく伸びつつあった当時、移入※した青バナナを熟成室(むろ)で熟成加工し小売店に卸す移入加工業者として創業した「水信商店」はバナナ加工では草分け的な存在でした。
※当時台湾は植民地だったため、輸入ではなく、移入品と呼ばれていました。

その後、多くが参入して移入加工業者の数は全国で400ほどにまで膨れ上がりましたが、横浜港がバナナの主要入港地である地の利を生かし、「水信商店」は昭和12年(1937年)ごろには全国でも一、二の実績を誇るまでに成長しました。

「水菓子屋の信さん」と呼ばれていた初代社長の加藤信明。「水信(みずのぶ)」という社名のルーツです。

昭和16年(1941年)に勃発した太平洋戦争により、船不足でバナナの輸送ができなくなったため、水信商店はバナナ加工業の中断を余儀なくされました。

その間、バナナの商売で掴んだ青森から静岡にかけて広がるお得意先へ、干芋、メンマ、干柿などの乾物を産地から仕入れて納めるといった商売で凌いでいましたが、昭和20年(1945年)の横浜大空襲で、水信商店のあった宮川町一帯も焼けてしまい、水信商店はそれまで築いてきたものすべてを失ってしまいました。

再出発は戦後の混乱の中、野毛の一角の露天から始まり、その後、果物店・水信商店を開くまでになります。
昭和23年(1948年)には、初代の引退にともない息子の加藤明が水信商店の跡を継ぎ、昭和24(1949年)には、戦時中に防空壕として使っていた地下室(むろ)を使って、駐留軍の輸入したバナナを熟成加工する商売も始めました。

そして昭和26年(1951年)、ついに民間ベースでのバナナ輸入が再開し、水信商店は再びバナナの加工卸業に着手します。バナナ市場は急成長を遂げ、同時に水信商店も大きく成長。昭和27年(1952年)には水信商店株式会社として法人化するまでになりました。

水信商店㈱の設立当時、台湾をめぐる国際情勢が不安定だったため、バナナの輸入に支障が出ていました。バナナ以外に活路を求める当社は果物の小売業への進出を考えていました。当時の横浜駅西口は材木置き場ぐらいしかない不毛の地でしたが、この場所が将来発展すると見通し、商店街の入居に一番に手をあげたのです。

さらに、入居が決まった建物の2階に東京の大手フルーツパーラーが進出するという話があり、急遽フルーツパーラーを開店することを決断します。こうして、横浜駅西口名品街(現在の横浜ジョイナス)に果実小売店と初めての飲食店舗であるフルーツパーラーの2店舗を開店しました。

横浜駅西口は、先見どおりの発展を遂げ、当社もそれについていくように順調に成長してまいりました。昭和33年(1958年)には株式会社水信を設立、本格的に多店舗展開を進め、果実小売店と飲食店舗を次々にオープン。さらに、倉庫用地などの目的で不動産を取得し、現在の水信ビル事業の土台ができました。

当初パーラーと軽食だけだった飲食部門も、昭和40年代に入ってレストラン、ステーキハウスなどをオープンさせていきます。レストラン開店にあたっては、飲食部進出当初から相談に乗っていただいた東京のレストラン「小川軒」に指導をあおぎ、昭和48年(1973年)、飲食部門を株式会社水信ブルックスとして独立させました。

㈱水信ブルックスは現在、水信の100%出資会社となり、鉄板焼「知喜多」、ブラジリアンバーベキュー「トラヴェソグリル」、その他カフェなどを運営しています。

1973年(昭和48年)には横浜市中央卸売市場「本場市場」「南部市場」にて仲卸業も開始し、フルーツだけでなく青果全般を取り扱う小売店舗も増やしていきました。

昭和40~50年代は、高度成長期という時代の波に乗って、当社もどんどん店舗を拡大し、店舗数はグループ最大で20数店舗までになりましたが、バブル崩壊を機にそれまでの拡大路線を見直し、新たなコンセプトを持つ店舗づくりへと転換していきます。